History of Education Thought Society  教育思想史学会



第12回教育思想史学会奨励賞  (2015年9月)
【受賞者】
村松 灯(東京大学・院生)
【対象論文】
「非政治的思考の政治教育論的含意―H. アレントの後期思考論に着目して―」、『教育哲学研究』第107号、2013年5月
【受賞理由】
今回の奨励賞に関しては、他薦によって応募された論文1編について審査が行われた。その結果、村松会員の当該論文が受賞にふさわしいものとして認められた。  本論文は、ハンナ・アレントの後期(1961年のアイヒマン裁判以後)思想における思考論を検討することによって思考の公共的意義を考察し、政治教育(論)において思考がもつ意味を解明することを企図したものである。著者によれば、アレントは一貫して思考の非政治性を強調したが、特にその前期思想においては、西欧哲学の伝統として「活動的生活」に対して「観照的生活」を優位におく、という関係の見直しに関心が向けられていた。それが後期に至って、「観照的生活」とは異なる思考のあり方が論じられるようになる。後期アレントにおいても思考の非政治性の強調は変わらないが、思考を普遍的な「真理」ではなく「意味」を問う活動として捉えていること、さらに思考する自我が「世界」から退却し思考が孤独のうちでなされることが主張されるようになる。著者は、ここにアレントの議論の反転を読みとり、思考の非政治性が公共性と逆説的に連関して政治的な意味を帯びることを指摘する。それは、思考により生まれた良心にもとづいて他者との同調を拒否した場合の活動が政治性を帯びること、さらに普遍的なものを批判的に問い直すという思考の破壊的な性格が政治的判断力を解放すること、また思考によってのみ「世界」において責任を負う「人格」が可能になること、を論拠とする指摘である。  著者によれば、現在のシティズンシップ教育においては、市民的資質の育成に関して二つの立場がある。政治的実践の能力を重視する「参加重視型」と、意思決定や政治的判断力を重視する「意思決定・判断重視型」である。アレントの後期思考論は、そのいずれでもない「思考重視型」の政治教育の可能性を考察するための理論的基盤を提供する。直接的な政治問題や実践、あるいは他者との関係から離れて「意味」を問う思考そのものにも、市民的資質を育成するためのまさに「意味」があることを著者は喝破する。  本論文は、市民的資質の育成や政治教育のあり方をめぐるアクチュアルな課題を背景に有し、アレントのテクストや思想に真摯に向きあい丹念に読み解き、独自の解釈の提示を試みている。論文構成や論理展開も整合的であり、多くの審査委員から高い評価を受けた。  一方、教育思想史研究としては歴史的背景への論及や方法論に関する議論が弱いのではないか、との指摘も強くあった。またアクチュアルな課題意識のもとで意義ある示唆が導出されてはいるものの、その枠組みによって、アレント思想の教育学的・人間形成的意義の考察や教育思想史的展望が制約を受けているのでないか、との意見もあった。  もっとも本論文は、もともと教育思想史研究を志向して執筆されたものではなく、また著者自らが本奨励賞に応募したわけでもない。本奨励賞の授与は、著者がアレントにかかわる教育思想史的研究を発展させてゆく契機になる可能性が大きい。そのためには、アレント思想や思考論を成立・展開させてきた歴史的条件や文脈についての論究、また書簡やインタビュー記録など対象とするテクストの拡張が課題となる。本論文で示された著者の研究者としての力量は、こうした課題に充分に応えることができると期待できる。  以上のような判断から、奨励賞・特別選考委員会および選考委員会は、本論文に第12回教育思想史学会奨励賞を授与することを決定した。

第11回教育思想史学会奨励賞  (2014年10月)
【受賞者】
 河野桃子(信州大学)
【対象論文】
「前後期シュタイナーを貫く『世界自己』としての『私』という観点 ――シュタイナーのシュティルナー解釈に見られる倫理観に着目して――」、『教育哲学研究』第104号、2011年12月
【受賞理由】
本論文は、前期および後期のシュタイナー思想を貫く「世界自己」(=「世界」と同じ拡がりをもつ「私」)という考え方に着目しつつ、彼のシュティルナー解釈を媒介としてシュタイナーの「倫理的個人主義」を解明すると同時に、「道徳的想像力」によって「倫理的個人」へと「発達」していく彼独自の教育思想の意義を検討している。その考察は、同時に、シュタイナーにおける前・後期思想の整合性を見出す作業ともなっている。前期シュタイナーがシュティルナーに依拠しつつ理想の倫理的状態を静態的な観点で観察していたとすれば、後期シュタイナーはそのような理想の倫理的状態へと向かう過程を導く手段をシュティルナーとの緊張関係のなかで追究していたのではないか。論者は、シュタイナーにおける前期と後期の思想をそのように関連づけることによって、しばしば前期と後期とでは断絶していると指摘される彼の思想を一つの地平として包括的に捉える可能性を示している。考察対象となるテクストに対する丹念な読解がなされており、解釈の緻密さと独自性に優れ、また結論へと至る論述が説得性を帯びている。以上のようなことが、総合的に高く評価された。 シュタイナー研究領域における新たな解釈可能性を提示したことが評価された一方で、教育哲学領域一般のなかに本研究の重要性を位置づける今少しの工夫(たとえばシュタイナー独自の倫理観をそれとは異質な他の諸思想家におけるそれとの対比によって相対化するといった工夫)があれば、本論文が有するメッセージ性の及ぶ範囲がよりいっそう広くなったであろうとの意見も出された。ただし、こうした改善点の指摘は本論文の価値をいささかも貶めるものではない。本考察の延長線上において、論者は、シュタイナー研究においては彼の教員養成の検討へと、またシュタイナー研究の外部においては道徳や規範の問題へと連なるさらなる研究関心を示している。そのような方向で今後の地道な研究活動が継続されれば、先述の改善点は自ずと克服されるものと考えられる。受賞者のさらなる飛躍に期待したい。 以上により、特別選考委員会および選考委員会は、本論文に奨励賞を授与することとした。

第10回教育思想史学会奨励賞  (2013年9月)
【受賞者】
生澤繁樹(上越教育大学)
【対象論文】
「民主的な子どもの性向を育てる―デューイにおける家庭・学校・共同体のアポリア―」、『日本デューイ学会紀要』第51号、2010年10月
【受賞理由】
本論文は、「政治」と「教育」の関係を再構成するという教育学の今日的な課題をめぐって、デューイの民主主義論の批判的再検討を試みる意欲的な論考である。著者によれば、デューイの民主主義論は、「生の様式」としての「政治」とそれを支える「教育」が、「家庭・学校・共同体」という「同心円的」連関図式のなかで展開することを基本的テーゼとしている。しかし現代の価値多元化社会では、もはやこの連関図式を素朴に仮定することができなくなっている。家庭、学校、共同体を結ぶ紐帯は分断され、それにともなって政治と教育の調和もせめぎ合いに転化している。このようなアポリアとその克服の課題について、著者はアメリカを中心とする現代の教育・政治思想にかかわる諸説を手際よく参照しつつ考察する。デューイ思想の手堅い解読、さらに現代的な文脈におけるその限界と可能性を析出しようとする手法や論点の設定について、多くの選考委員が高い評価を与えた。 ただし選考の過程で、いくつかの課題も指摘された。たとえば、本論文が学会課題研究における報告を基調とするものであるとの制約があるにせよ、そのすぐれた手法や論点による考察が、最終的には課題の提示に終わっており、デューイ思想の読み直しや現代的な文脈における議論の再構成という具体的な考察にまで至っていない、との指摘があった。また、デューイの時代と現代との文脈や状況の差異が本論文の基本的枠組の基盤を構成しているにもかかわらず、その歴史的状況についての明示的な議論がないことが、教育思想史研究としては物足りないのではないか、との意見もあった。  しかしこうした課題については、著者によって当学会内外ですでに示されている教育思想史研究者としての技量や諸業績を視野に入れて考慮するならば、本論文の議論のさらなる発展や深化の可能性を示すものである、と判断するのが妥当であるだろう。今後とりわけ、歴史的視点にも重点をおいた教育思想史研究を展開されるであろうその将来性に期待したい。以上により、特別選考委員会および選考委員会は、本論文に奨励賞を授与することとした。

第9回教育思想史学会奨励賞  (2012年10月)
【受賞者】
関根宏朗(岩手県立大学)
【対象論文】
「エーリッヒ・フロム「自己実現」論の再構成――「持つこと」と「在ること」の連関に注目して」、『教育学研究』第76巻第3号, 2009年9月
【受賞理由】
奨励賞選考委員会における議論に基づいて、本論文が本学会奨励賞を受賞した理由について述べる。本論文は、二元論的と見られがちであったフロムの基本的図式すなわち「持つこと」/「在ること」の二項図式を動態的に把握し、そこに立ち現れる「動的な連関性」に、フロムの思想の人間形成論的な可能性を読み取ろうとしている。考察の主要な方法は、この「動的な連関性」を、フロムが親しんでいた初期マルクスの「私有財産の止揚」の議論と重ね合わせるという、独自の手法である。問題意識・研究目的は明確であり、構成や議論の展開も堅実である。フロムのみならず、マルクスにかんする先行研究も視野に入れ、その成果と問題点をよく踏まえている。フロムの遺稿を手がかりとするなど、史料探索にも労を惜しんでいない。また、著者が今後の課題として記しているように、「愛」「共感」といった概念の分析を踏まえて実践的な教育場面に則した考察を展開する用意があることも評価される。  限られた紙幅という制約のためかもしれないが、二つの課題が指摘される。一つは、初期マルクスにとって中心的であった疎外とその克服の問題が考察の対象になっていないことである。そのため、「持つこと」から「在ること」へと向かう動態性も、また「コミューン」への見通しも、抽象的な図式に留まっているように見える。また、二項図式を超えたフロムの思考が、なぜ彼の主要著作において背景に退いてしまったのか、といった点も追究されるべきだろう。その意味で、思想史研究としては多少の物足りなさが感じられる。  しかし、こうした課題が見いだされることを考えても、本論文は高く評価されるべきであり、また本論文の執筆者には研究者としての将来性が十分に期待できる。以上のことから、本論文の執筆者に教育思想史学会奨励賞を授与する。

第8回教育思想史学会奨励賞  (2011年9月)
【受賞者】
鈴木篤(兵庫教育大学)
【対象論文】
「1920年代ドイツ「教育の限界論争」の再検討―S.ベルンフェルトの議論を中心に―」、『教育哲学研究』第100号、2009年11月
【受賞理由】
鈴木論文は、「教育の限界論争」に関する日本・ドイツの一次資料および先行研究を手がかりに、同論争を20世紀初頭のドイツ精神史の文脈、社会的状況に関連づけながら、その含意を確認している。すなわち、この論争が1920年代初頭のドイツにおける、教育への希望と挫折という相反する態度への冷静な反省であり、「教育無能説」ではなく「教育非万能説」を唱えるものであったこと、また同論争の中心的な論者であるベルンフェルトの議論が現代にも通じる教育の限界を指摘していたことなどを確認している。結論に派手さはないが、手堅い教育思想史研究である。また、今後の研究の進展を予感させるところも大きい。以上の事由から、審査委員会は本論文が第8回教育思想史学会奨励賞に十分値すると判断した。

第7回教育思想史学会奨励賞  (2010年9月)
【受賞者】
青柳宏幸(中央大学・非常勤)
【対象論文】
「マルクスにおける労働と教育の結合の構想―国際労働者協会ジュネーブ大会における教育論争を手がかりとして―」『近代教育フォーラム』第17号、2008年9月
【受賞理由】
著者は、本論文において、従来のマルクスの教育論に関する研究には、後世のマルクス主義からの歴史的投影が大きく、マルクス本人の教育論は等閑視されてきた、と論じ、マルクス本人の教育論を原典に即しつつ、再構成することを目指している。すでに欧米においてマルクス本人の教育論を析出しようとする試みは、ないわけではい。しかし、そうした研究は、理論的な志向が強く、歴史的な実証性を欠くきらいがあった。著者は、こうした海外の先行研究の問題点を厳密な原典分析とともに、詳細な歴史的背景の省察によって、乗り越えようとしている。主要な論点は、第一に、マルクスが労働と教育の結合という場合の労働とは、賃労働であり、よくいわれる労働の教育的利用ではない、ということである。これは、教育と労働の結合を教育の枠組みの中で教育学的に純粋化し理想化する従来のマルクス教育論を覆す論拠である。第二の論点は、教育と労働の結合が未来社会においてはじめて実現されるべき理想ではなく、いま現在の資本主義社会を変革していく手段として構想されているということである。これらの論点がもつ意味は、単にマルクスの教育論を実証的に明らかにし、旧来のマルクスの教育論理解を刷新するにとどまらない。これらの論点は、教育と労働を結び付けることが、常にその時代における社会状況から遊離しえない文脈依存的な試みであることを暗示している。本論文の課題は、マルクスのいう教育の内容が十分に鮮明ではないことである。およそのところ、それはドイツの陶冶論的な色彩をもってはいるが、この論文ではその内実について明示的な論究は行われていない。こうした課題はあるにせよ、本論文はきわめて斬新な試みであり、一定の説得力も備えている。教育思想史研究の通説を越えようとする著者の意欲、志を随所に感じることができる論文であり、著者の今後の研究のさらなる発展が期待できる。したがって、審査委員会は本論文が第7回教育思想史学会奨励賞に十分値すると判断した。

第6回教育思想史学会奨励賞  (2009年9月)
【受賞者】
小野文生(京都大学)
【対象論文】
「分有の思考へ―ブーバーの神秘主義的言語を対話哲学へ折り返す試み」『教育哲学研究』第96号、2007年11月
【受賞理由】
 第6回の教育思想史学会奨励賞が、小野文生氏に授与されることに決定された。小野文生氏の論文「分有の思考へ―ブーバーの神秘主義的言語を対話哲学へ折り返す試み」(『教育哲学研究』第96号、2007年)は、従来、初期の神秘主義研究の克服として語られることの多かったブーバーの対話哲学が、神秘主義とはそのような単純な克服の関係などではなく、初期の神秘主義研究で論究された「分有の思考」の大胆な展開であることを明らかにした、優れた思想史的研究論文である。  これまでブーバーの思想は神秘主義から対話への「転回」として理解されてきた。多くのブーバーの教育思想研究もそのような図式に基づいて論じられている。しかし、小野氏によれば、一方でこのような理解が重要であることを認めつつ、他方で神秘主義がブーバーにとっていかなる意義を持つものなのか、そしてなぜそれが「克服」されねばならなかったかが、問われる必要があるという。小野氏はこのような問いから、神秘主義と言語の関係に焦点をあてて、対話哲学を「それが生成発展してきた土壌とされる神秘主義の方へ折り返してみるという試み」を果たそうとする。
 小野氏は、ブーバーが神秘主義に関わっていた当時のユダヤの神秘主義の思想的布置を思想史として示し、その思想的布置のなかでブーバーが神秘主義として何を語ろうとしていたかを明らかにしようとする。そのためベンヤミンがブーバーに宛てた書簡を手がかりに、当時において、ユダヤ思想・ドイツ語圏での言語をめぐる思想が、「言いえないもの」の体験を言い表そうとする努力としての神秘主義と結びついていたこと示す。その上で、ブーバーのウィーン大学博士学位論文『個体化の問題史』を手がかりに、ブーバーにとってこの神秘主義の主題との関係で「個体化の問題」がアクチュアリティを持つようになったことを明らかにする。そして、ブーバーは個体の完成すなわち成就へと努力することこそが神の創造に関与することであること、またその「神性の分有」にはそれぞれ程度があり、個体とはその襞を包含した存在であるという認識にいたるという。
 ブーバーの思想のうちに神秘主義から受け継いだ遺産としてのこの「分有の思考」を見いだすことで、小野氏はブーバーはこの「分有の思考」から対話哲学を繰りかえし吟味しつづけたのではないかと問う。小野氏は、「神秘主義的思考は、たとえブーバー自身の『理解』から逸脱することがあろうと、あるいはブーバー自身の『弁解』に反して、対話哲学のダイナミズムを維持する上で絶対に必要な次元なのである」という。さらに小野氏の言葉を引くなら、「『神秘主義における個体化の問題』に関する一連の議論を経て、自己保存への努力を可能にするものは何かという問いが、神の分有可能性を媒介にして、対話哲学のなかで他者の呼びかけへの『応答責任を担う努力』として大胆に読み替えられていったのだとしたら、ブーバーが神秘主義に見出したひそやかな意義は予想外に大きいのではないか」というブーバー解釈の核心を語る。
 小野論文は、十分に考え抜かれた思想展開で、思考の緊張感が最後まで持続しており、革新的で優れた論文といえる。ブーバーの思想を、世紀転換期から世紀前半のドイツ語圏での思想的連関のなかに位置づけ、そこから「神秘主義的言語を対話哲学へ折り返す」という課題を実現しているといえる。さらに小野論文は、ブーバーの神秘主義の克服といった従来の文脈で理解されてきた対話哲学の研究に新たな解釈の可能性を開くばかりか、そこからこれまで理解されてきたブーバーの教育思想を根本から覆すような読み直しを期待させてくれる。その期待は大きい。
 教育思想史学会は、これからも優れた若手(研究歴の浅い)研究者を積極的に評価し支援したいと願っている。自薦・他薦にかかわらず、教育思想史学会奨励賞の候補者が、これからますます増えていくことを願っている。

第5回教育思想史学会奨励賞  (2008年9月)
【受賞者】 
古屋恵太(東京学芸大学)
【対象論文】
「『自然な学び』の論理から『道具主義』は離脱できるか?―現代社会的構成主義への進歩主義教育の遺産―」『近代教育フォーラム』第14号、2005年>9月
【受賞理由】
 著者は、本論文で、従来の進歩主義教育に関する研究には、それが自由を標榜しながら、実は「社会統制」と「社会効率」を志向する教育運動に過ぎなかったとして、その中でデューイをはじめとする諸理論家、実践家を差別化することで救い出すという「定められた論証のスタイル」があったと指摘し、それを乗り越えるための新しい視点を提示しようとする。
 従来のこうした論証のスタイルに対して、著者はイーガン(Kieran Egan)の所論を手がかりに、「自然な学び」と「人工的、人為的なものを媒介とした学び」という新しい分析枠組を提示する。そうすることで、新教育運動を世界同時進行の現象として眺め直すことが可能になると同時に、ソビエト・ロシアのヴィゴツキーとアメリカのデューイが、ともに近代の物心二元論の克服の方途を、「道具、人工物」に着目し、自然と人工物との相互浸透の理論を構成してきたことを明らかにしている。この人工物との関わりを重視する「道具主義」が、実は現代の「社会的構成主義」(social constructivism)の理論的水脈として生き続けてきた点を詳細に明らかにしている。著者は、デューイ哲学の「ヨーロッパ化」において最大の障害と目された「道具主義」を、こうした新しいパースペクティヴから捉え直すことで、「道具、人工物」のもつ重要な意味と、同時代のソビエト・ロシアのヴィゴツキー心理学との共通の関心地平を、実に説得的に浮かび上がらせている。
 先行研究へのレビューは適切かつ周到であり、「道具、人工物」に着眼したデューイやヴィゴツキーの解釈は、きわめて斬新であり、説得力も十分にある。教育思想史研究の通説を超えようとする著者の意欲とチャレンジ精神を随所に感じられる優れた論文であり、著者の今後のさらなる研究の発展が期待できる。したがって、審査委員会は、本論文が、第5回教育思想史学会奨励賞に十分に値すると判断した。

第4回教育思想史学会奨励賞  (2007年9月)
【受賞者】
森岡次郎(大阪大学)
【対象論文】
「『新優生学』と教育の類縁性と背反―『他者への欲望』という視座」『教育哲学研究』第93号、2006年
【受賞理由】
 本論文は、新優生学と教育という教育学にとって新しい主題に挑戦した論文である。
 遺伝子技術の進展は、遺伝子改良によって思い通りの特定の特徴を持った人間を作り出すところにまでは来ていないにしても、「劣った」形質の排除や治療という形で遺伝子に働きかけることが近い将来可能だといわれている。このような新優生学の趨勢にたいして、従来の教育観は大きな転換を迫られているのだと森岡氏はいう。
 森岡氏はまず優生学の歴史を概観し、かつての優生学が例えばナチズムの体験で示されているような強制的な性格と疑似科学的な性格を持っていたのにたいして、新優生学は「個人の自己決定が重視されていること」と「科学的妥当性を有していること」に基づいているところに特徴があることを明らかにする。そしてこのような新優生学に立つとき、それは「よりよい人間」「よりよい社会」を希求する教育で認められているものと差異はなく、従来の優生学批判は十分な説得力を持たないことを、新優生学肯定派のグレン・マッギーらを登場させて語らせる。そのうえで、ハーバーマスによる新優生学への批判的議論から、「新優生学的欲望」に対する教育の独自性を明らかにしようとする。
 ハーバーマスによれば、新優生学では、プログラマー(両親)と設計された産物(子ども)の間に不可逆的な従属関係が生じ、この関係は相互に役割を交換することができないという。この従属関係の不可逆性が「自己理解にとって、また、法や道徳的なコンセンサスを形成していく公的コミュニケーション的行為の場面において、最も深刻な問題となる」というのである。それに対して教育においては、子どもの側からの拒否が可能なのである。新優生学と教育とはともに子どもに操作的に働きかけるという点において共通しているが、教育においては操作できない「他者」という側面がある。ハーバーマスはこの「拒否可能性」のうちに教育的働きかけの正当性が担保されているのだと考えた。
 森岡氏は、このハーバーマスの考察をさらに発展させて、教育的働きかけが失敗に終わる可能性があるからこそ、子どもを思い通りの姿へと変容させることに快感を覚えるのではないかという。教育の場面において、この子どもが他者であって欲しいと願うあり方を森岡氏は「他者への欲望」と呼んでいる。そしてこの「他者への欲望」のうちに教育を背後で支える倫理を読み取ろうとする。さらにこの教育という営みを支える「他者」への倫理から、「新優生学的欲望」が捉え直されていくことになる。
 ルーマンのシステム論理解やレヴィナスの他者論の理解に、この論文の弱点を見ることができるかもしれないが、新優生学と教育という新しい課題を、優生学の思想史的理解をふまえたうえで新たに位置づけ、その文脈において他者論から教育学を捉え直す方向を示しており、そのアクチュアルな問題意識と、論述の明快さ、そしてその指向性において、将来のさらなる展開を期待することができると評価された。
 教育思想史学会は、これからも優れた若手(研究歴の浅い)研究者を積極的に評価し支援したいと願っている。自薦・他薦にかかわらず、教育思想史学会奨励賞の候補者が、これからますます増えていくことを願っている。

第3回教育思想史学会奨励賞  (2006年9月)
【受賞者】
下司晶(上越教育大学)
【対象論文】
「〈現実〉から〈幻想〉へ/精神分析からPTSDへ―S.フロイト〈誘惑理論の放棄〉読解史の批判的検討」『近代教育フォーラム』第12号、2003年
【受賞理由】
 本論文は、今日ますます大きな影響力を持ちつつある臨床心理学的な見方を、思想史的な方法によって相対化する可能性を開いたものである。とりわけ近年、トラウマ論をめぐって心理主義的解釈と政治主義的解釈とのあいだで論争が展開されているが、それに対して本論文は、フロイトの死後公刊された『フリース書簡』を編纂したクリスとマッソンによって提示された〈誘惑理論の放棄〉をめぐる相対立する解釈を詳細に検討することによって、新たな視点を提示している。著者によれば、クリスとマッソンの一見対立する解釈は、個体の行動を個体の経験の範囲内で説明しようとする心理学的枠組みを共有しており、一種の心理学的循環論に陥っている。この循環を突破することこそが今日求められている方向であり、そのための一つの方法が、精神分析学の学としての誕生を思想史的文脈の中でとらえなおすことであるという著者の問題意識はきわめて明快であり、そのための実証的手続きは手堅く、かつ論証も説得力に富むものである。
 残された課題は、こうした精神分析学の思想史的解明が、さらに教育思想史としてどのように織り込まれていくのかという点である。制度化された精神分析学的知からの教育の解放という観点は提示されているが、今後はさらに、本論文で行われた作業が教育思想史研究において持つ意味とインパクトをより明示的に論じていってほしい。
  以上のように本論文は、アクチュアルな問題意識と着実な論証によって教育思想史の新たな領域を切り開こうとする意欲的な研究であり、若手研究者の可能性に満ちた研究を奨励するという本賞に十分に値するものである。

第2回教育思想史学会奨励賞  (2005年9月)
【受賞者】
岩下誠(東京大学大学院)
【対象論文】
「ジョン・ロックにおける教育可能性に関する一考察――観念連合を中心に」『近代教育フォーラム』第13号
【受賞理由】
 本論文は、ロック教育思想を、観念連合というロック以降の教育学において、きわめて重要な役割を演じるテーマに焦点を当てて詳細に分析し、従来のロック教育思想解釈に新たな視点を提起したものである。
 観念連合は、ロック自身が、『人間知性論』および『知性指導論』の中で、誤った観念の形成との関係で否定的に語っていることから、従来のロック研究ではほとんど重視されてこなかった。一方、『教育に関する考察』のなかでは、道徳教育論における賞罰との関係で扱われていることから、教育思想研究の分野では、観念連合は教育手段として、いわば二次的副次的に扱われてきた。岩下氏はこれに対して、ロックにおける観念連合という発想の成立過程を、彼の日記を詳細に分析しながら跡づけ、その知見をもとに、単なる教育手段としての観念連合ではなく、教育関係そのものを可能とする教育原理としての観念連合の思想がロック教育思想の中核として存在していることを明らかにした。
 ロックの観念連合論の形成過程は、認識の最小単位を「像」 (picture)としてとらえ、それにもとづいて、狂気と想像力の関連を論じている日記の記述から認識の最小単位を「像」から「観念」へと微分し、それにもとづいて、新たに狂気を観念連合と結びつけて論じている『人間知性論』への発展過程として再構成される。アトムとしての観念においては、対象との自然な結びつきを持たない多様な連合が新たに作り出されることが可能となる。氏は観念連合が持つこうしたいわば創造的な働きに注目し、『人間知性論』および『知性指導論』ではもっぱら、誤謬との関係で否定的に論じられていた観念連合が『教育に関する考察』においては、子どもと世界との間に新たな関係を創造する積極的な機能を担わされていることを明らかにする。すなわち氏は、ロックにおける観念連合を子どもを教授−学習という教育関係そのものの中へと参入させる、能動的積極的な原理として再構成するのである。こうした作業によって、従来ロックのものとみなされてきた白紙説にもとづく教育可能性概念が、じつは、すでに教育関係の中にいる受動的な子どもを前提とした教育可能性であったことが明らかにされる。
 以上のような氏の論述は、先行研究の明快な整理とそれに対する批判的視点、適切な資料の選択、論述の明快さと緻密さ、発想の独創性という点で高く評価された。近代的な教育関係がいかにして成立可能となったかという教育思想史上の大きなテーマに、緻密な個別研究によってアプローチしようとする研究は、その堅実な研究態度、今後の発展性、可能性という点からも、本学会の奨励賞としてふさわしいものと評価され、受賞となった。

第1回教育思想史学会奨励賞  (2004年9月)
【受賞者】
北詰裕子
【対象論文】
「J.A.コメニウスにおける事物主義と図絵 ― 17世紀普遍言語構想における言葉と事物 ―」『教育哲学研究』第84号、2001年11月
【受賞理由】
 第1回教育思想史学会奨励賞の応募論文数は3本であった。決して多くはなかったが、北詰氏の上記受賞対象論文、フロイトとユングの比較検討を独自の概念構成のもとに試みた下司晶氏の論文「フロイトとユングの分岐における<人類の先史としての子ども>」(『東京大学大学院教育学研究科紀要』第43巻、2004年3月)、また原典の忠実な読解をもとにデューイの「個性」概念に関キる考察を行った古屋恵太氏の論文「IQ論争期におけるジョン・デューイの『個性』(individuality)概念の展開」(『教育学研究』第68巻、2001年12月、日本教育学会編)と甲乙つけがたい力作が揃った。厳正な審査の結果、教育思想史学会奨励賞審査委員会は北詰氏の論文を受賞対象とした。
 第1回、教育思想史学会奨励賞の対象となった北詰裕子氏の論文「J.A.コメニウスにおける事物主義と図絵 ― 17世紀普遍言語構想における言葉と事物 ― 」の全体を貫く視点は、「はじめに」における次の記述に端的に示されている。
 「明治期から近年に至るわが国の研究は、コメニウスを『世界図絵』をはじめとする言語教科書の作成、一斉教授、単線型学校システムの考案、子どもの発達段階に即した教育内容の提唱等をもって近代教育の祖と位置づけてきたが、中でもその位置づけの核は近代教育において連綿と続くコメニウスの事物主義である。だが、そこでいわれる事物とは何をさすのだろうか。近代教育において事物主義は、現実の事物をあるがままにとらえる近代的リアリズムとつながる、感覚可能な実物の教授としてとらえられてきた。しかし、コメニウスの生きた17世紀は、フーコーが類似から表象へというエピステーメーの転換を指摘したように、言葉と事物との乖離という状況の中で、認識論的枠組み、世界観そのものが揺れ動いた時代である。とするならば、彼の事物主義とは特異に17世紀的な言語観、認識論的背景に裏打ちされたものであるはずである。」
 言葉と事物が乖離し、世界観そのものが大きく揺れ動く17世紀の言語観、認識論の文脈の中でコメニウスの著作を読み直すと、従来の通説とされてきた「近代的リアリズム」の系譜とは大きく性格の異なったコメニウスの言語観が浮かび上がってくるのではないか。これが本論文における北詰氏の研究のモチーフをなしている。そこで、北詰氏は、これまでコメニウスの教育思想における事物主義が、言語主義批判というかたちで普遍言語的に語られてきたのに対して、フーコーのエピステーメー転換の構図に基づいて、コメニウスのテクスト(とりわけ『光の道』、『開かれた事物の扉』、『世界図絵』)を丹念に読み直し、コメニウス研究における新しい視点を提示しようとしている。
 その際、とくにコメニウスと同時代で相互に影響関係にあったウィルキンスの言語観と比較対照する作業を通して、コメニウスにおける「事物主義」が、通説とされているリアリズム的な実証主義の系譜にあるものでは全くなく、具体物を通して、その背後にある秩序や観念を映し出すものとして捉えられていたことを、実にきめ細かに論証している。
 福音主義的な言語観から事物主義的な言語観へという流れで位置づけられてきたコメニウス像を、言葉と事物とが乖離した状況の中で、それらを再度結びつける暗黙の秩序やコードの存在を浮かび上がらせる作業を通して、北詰氏は、近代の「事物」が「事物」たりえた根拠を明らかにしている。「コメニウスにとって事物とは、まさに近代教育が事物・実物教授を掲げて切り捨ててきた、イデアや真理を示しうるという意味で観念的なものであった」という結論部分の記述は、従来のコメニウス研究からすれば、かなり大胆な結論であると考えられる。その意味では、今後、賛否両論の大きな論争を巻き起こす可能性もある。しかし、本論文は、それだけに近代教育思想史研究の根幹に関わる議論を提示したことは確かであり、教育思想史研究に強力な一石を投じたことは疑いない。先行研究へのレビューは幅広く行き届いており、適度に緊張感のある歯切れのよい文体は、論文全体のリズムと説得力を生み出し、61項目もの詳細な注釈は、その記述に厳密さを補強している。したがって、北詰氏には、これからの教育思想史研究における発展が十分に期待できる。
 以上の理由から、審査委員会としては、北詰裕子氏に、第1回、教育思想史学会奨励賞を授与するものである。